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『アルコール問題−個人と連帯−』



小塩 玄也
 
(禁酒同盟、断酒修養会創立42周年記念例会 [1995.10.30]に於ける講演に基いて加筆してまとめたもの)

 私の学生時代、回りの同僚学生達は皆飲む連中ばかりで、私が禁酒の話をしても、「酒を飲むことは各自の自由だ」「とにかく俺は飲むよ」と言うわけであまり相手にされなかった。そもそも飲むことが普通とされて、私は変わり者扱いであったのである。それにしても、私と向合った時には「飲み過ぎがいけないんであって適度に飲めば良いんだ」と真顔で言っていながら、一方ある時は、「夕べは何某の下宿に数人で押掛けて、したたか飲んで暴れて遂に床を抜いた‥‥」など、哄笑しながら前夜の武勇談をやっているのを聞くと、「適度に飲む」などと言うことが、いかに空証文であり「飲む」為の言訳に過ぎなかったかが分る。今日の「適正飲酒」と言うのはその定型版である。
 その頃の恩師の中に一人、K先生という女性の先生がおられた。この先生と話をしていて、談偶々禁酒運動に及んだ時、当然のように、「私は飲まないから関係ないですわネ」と言われて、そこに貴重さを感ずると共に驚きと失望とを禁じ得なかったのである。考えるまでもなく、「自分は飲まない、ただそれだけ」という人が居て当然であり、(それが普通のいわゆる良識とされるのであろうが)私が偶々全ての人の禁酒を念願し、その一部として自分が飲まないからといって、飲まない人の全てにそれを当て嵌めようとするのは私の勝手な思い過ごしであったことは明らかである。しかし、当時の私にとって、その先生を尊敬しており、私もまた一目置かれた学生であっただけに、飲む人からも、飲まない人からも拒絶されたことは矢張りショックだったのてある。「それじゃあ私はどうすれば良いんだ?」と言う思いであった。また、人間、自分の行動と言うものは全く自由で、一切他人に対して責任はないと果して言えるのだろうか。そこが納得しきれなかったのである。
 頭の片隅にズーッとあり続けたこのわだかまりが鮮明に思い出されたのは、この初夏、オウム真理教事件に関するあるテレビの解説を聞いた時であった。抑々仏教には「小乗」(小さな乗物、hina yana)と「大乗」(大きな乗物、maha yana )と言う二つの区分がある。(余談ながら、問題のオウムのは更にもう一つの金剛乗 vagira yana であるのだが)小乗では、仏法修行の目的は専ら自分一個の成仏、解脱、救済にある。これに対して、世の全ての人々の救済、衆生の済度を目的とするのが大乗なのであると。
 これを聴いて私は、K先生と私との立場、態度の遠いの意味、私の抱いてきた不満感の意味を今更のようにはっきりと納得できたのである。
 人祖アダムとイヴの犯した罪は時空を越えて全人類に及び、イエス・キリストの十字架の贖罪はやはり時空を越えて全ての人に及ぶ(と言うことは全ての人がイエスを十字架につけた事に対して責任を負っている)と言うのは、形而上の、宗教的信念のみにとどまるのであろうか。
 ところが、それがそうではないのである。自宅で独りひそやかに少量の酒を嗜んでいる人が、余所の見も知らぬ他人のアルコール依存症に責任があるなどと言われたら驚いて怒り出すに違いない。しかし、それが科学的にも裏付けられているのである。
 S.レーダーマンによって、1956年、主としてフランスに於ける調査結果に基いて、アルコール消費量の対数に対する人口分布が所謂正規分布をなすことが結論された(第1図)。このように、何かの変数に対して個体数が正規分布することは、生物界に共通に見られる一般的な法則なのである。

第1図
 
図1:S.レーダーマン(1956)

 

 これによれば、ある社会の飲酒人口と全アルコール消費量とから平均消費量がわかれば、アルコール1日 150ml 以上の大量飲酒者(依存症者に対応すると見做される)の数を算出することが出来る。この方式はWHOや我が国の厚生省によって採用されている。と言うことは、人間集団である限り、この分布の形(を決めている係数)はどこの国でも同じであり、また滅多なことでは変わらないと言うことである。(我が国では、故額田博士によって日本により合うように修正した式が出されているが、大筋は同じである)

第2図
 
図2:WHOの式

 

 今、日本の飲酒人口を6000万人、平均アルコール消費量を1日 38ml(清酒約1.4合)とすると、WHOの式から、アルコール依存症者は約240万人となる。平均アルコール消費量が半減、または倍増したときどうなるかは、このグラフを左右にずらしてみれば見当がつく。この関係を詳しく計算して表したのが第2図のグラフである。依存症者を半減するにはアルコール消費量を6割程度に落とす必要がある事がわかる。これは全ての飲酒者が、3合の人は1.8合に、2合の人は1.2合に、1合の人は0.6合に‥‥減らす事を意味する。同様に依存症者を1/10にするには1/7とせねばならないことがわかる。逆に、万一アルコール消費量が倍増したとすると、依存症者は実に670万人にも達することになるのである。
 第1図に戻って、150ml/日の線の右側のアルコール依存症者は、左側の大多数の非依存飲酒者に“支えられて”いるのであって、切り離されて独立では存在しない。逆に、非依存飲酒者をそのままにして、この右裾を切落とす形で依存症者を無くすことも出来ないのである。即ち、全ての非依存飲酒者はその飲酒量に応じて、依存症者の存在に責任を負っているのである。
 我が国アルコール医学の草分けであった京都大学皮膚科の松浦有志郎先生はいみじくも、

十人に一人は酒に身を堕す、      
      九人の友が後押しをして。

 と歌っておられる(第3図)。飲酒人口6000万に対して依存症者240万とすると25人に1人であるが、働き盛りの男性に限るとこの数は更に多くなる筈である。増してやその中の「飲み友達」ともなれば、昔も今も10人に1人は決して誇張だとは言えない。そして、「九人の友が‥‥」の意味するところは極めて深長かつ重大である。近頃問題の中学生の「いじめ」と同じ様に、その「九人」に加害者意識のまるで無いところが恐ろしく、また不気味でもある。そしてその「一人」が死んだ時、「友達」だった筈の「九人」の何んとまあ冷たいことよ、「波奴ぁ馬鹿だよ。飲み過ぎやぁがって!」明日は我が身であることさえも知らぬ気に‥‥。卒業後2年ばかりで、卒業論文指導の恩師I先生は胃癌で逝かれた。その野辺の送りの一時、物陰で嗤いながら、「先生も好きだったからなァ」と、手を口に持って行く仕草をしていたのは、たしか生前先生に無理強いしていた面々の一人であった。
 以上の様に言えば、人は「あまりにも集団本意、統計万能で個人を無視するものではないか」と言うかも知れない。一人ひとりの人格、個性、理性、意志を尊重すぺきは当然であり、そこに向かってこそ酒量の低減が訴えられるべきは勿論である。しかし、上記から明らかな様に、もし仮に言うところの「適正飲酒量」が正当なものだとしても、全ての飲酒者がその「適正飲酒量」を守り、“「適正量」飲酒”を謳歌満喫して、しかも、依存症者もアルコール肝疾患者もいない、“洒飯み天国”を実現することは全くの幻想に過ぎないのである。
 一人ひとりが、社会連帯の中における個人であることを自覚し、お互いに認め合うことこそ真の個人の尊重でなければならない。

 

  

財団法人 日本禁酒同盟
Japan Temperance Union